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2010-12-26

戦後日本の製造業の成長と国際経済体制 その6

おわりに

 中村[2007]が指摘するように、経済学の基本である価格の変化が需供を調整するという原則が、昭和経済を貫いて働き、それが経済を動かしてきたことである。これは短期の特定の財について説くが、より幅広く、奥深い作用を及ぼしてきた。
 戦前において、重化学工業は、為替レートが高く、輸入品が安い間は伸びられなかったが、高橋財政期(1933年)以後、輸入品価格が上昇し、国内景気が上向きになると、急激に発展した。戦後のエネルギー革命も、二度にわたるオイルショックも、すべて価格の激変から生じたものである。それは、石炭から石油へ、あるいは石油から石炭へという代替だけではなく、エネルギーを多く使用する素材産業を勃興させ、逆にそれを停滞させて高加工度の産業を発展させるなど、産業構造をも大きく変化させた。経済成長の過程で、労働力が過剰から不足に変わったとき、賃金が上昇しただけではなく、労働節約型の技術を普及させ、中小企業の技術革新をうながした。
 戦時戦後の計画経済は、逆に需要供給の原則を否定しようとした。そこに無理が生じ、採算割れの産業が生まれ、補助金を必要としたり、一部に異常な高利潤の企業を生みだした。全体の効率は決してよいとはいえなかった。価格機構の動きの大きさに、あらためて驚いた。
 さまざまな面で戦後日本の経済のあり方は大きく変わった。だが、「日本経済は貿易なしには成り立たない」という性質は変わることなく、むしろその性質を強くしてきた。日本は島国であり、資源に乏しい。明治以来、日本は外国から原料や燃料を輸入しては、加工して生産を行い輸出する加工型の経済を作りあげた。戦前から昭和初期の日本最大の産業であった綿紡績業は、綿をすべて輸入して、これを加工して輸出する体系になっており、貿易依存度が高い経済であった。結果、戦前の国民総生産(GNP)に対する輸出の比率が20%であった時期もあった。
 昭和末期になると、GNPに対する輸出比率は高くとも15%から16%程度であった。これは貿易依存率が低下したわけではない。事実、わが国における生活の隅々まで輸入品に依存していた。たとえば、国産の肉類は全て輸入した餌によって育てられた家畜である。他に、エネルギー源は、戦前は国内の石炭と水力が主力であり、一部石炭と石油を輸入していたが、昭和末期になると石油の輸入が6割程度であり、液化天然ガス(LPG)などに依存している。さらに、当時の素材工業の比重が下がったといっても、日本の鉄鋼業は年間1億トンという世界第2位の生産規模を持っていた。その1億トンの原材料と燃料は全部輸入品であった。
 日本の産業が輸入に依存しなければならないというのに、なぜGNPに対する輸出入の比率が戦前より低くなったのか。これは日本の輸出品が原材料の輸入額が少なくなり、加工度の高い、高価な商品を輸出しているため、加工貿易による外貨の付加価値率が高くなっていた。これで必要な輸入をまかなうことが可能となり、日本のGNPに対する貿易の比率が戦前に比べて低くなった。しかし、貿易依存度が戦前に比べて下がったわけではなく、むしろ、国内の経済のために必要な財を輸入に頼っているという意味での貿易依存度は、より高くなっている。
 この状況をふまえれば、日本の利益を考えても、国際経済の安定はなによりも重要であると言わざるを得ない。まして経済大国であるという地位を考えた場合、日本は国際的な緊張緩和のために何をなしうるかということを真剣に考えることが何よりも重要である。これが日本の地位であるといいだろう。

参考文献

中村隆英、『昭和経済史』、岩波現代文庫、2007年。
玉田巧/佐和良作/宮田由紀夫/豊山宗洋/水谷淳、『現代経済ウォッチング』、八千代出版、2006年。
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2010-12-26

戦後日本の製造業の成長と国際経済体制 その5

第4節 製造業からサービス業へ

 日本経済のオイルショック後の特色の1つは、第3次産業の比重が急に高くなったことである。この時期に第3次産業が発展したのには、いくつか理由が挙げられる。消極的な理由としては、製造業にはあまり発展の余地がなく、むしろ人を減らす必要があり、伸びる可能性があったのが第3次産業だけだったというものがある。他に挙げられるのは、インフレのためもあり、金融自由化で活動の余地が広がった金融保険業の伸びが大きい。普通銀行よりも、郵便貯金や生命保険がそのシェアを拡大している。
他には、企業向けのサービス業がさまざまな形で発展したという事実もある。例えば、リース産業が急に発達した。コンピュータやブルドーザのような建設機械などを、個々の会社で買うのではなく、必要な時に貸し出す、リース産業が事業として成り立ったのである。小さな建設会社では、土木機械などはいつも使うものではないために、必要な時だけ借りられればいいというのである。実際、資本金10億円以上の法人の設備投資の構成比率を見ても、製造業の比重がこの10年間に急に下がり、第3次産業(特に電力、ガス、サービス業)の地位が高まってきたのが目立っている。あるいはビルの清掃業や、広告や、警備など、様々な企業向けサービス業が新しく作られていったのである。さらに、スーパーをはじめとする大型小売店の全国的普及を筆頭に、ファミリー・レストランや、自動車ディーラーや、旅行社など、都市型の商業やサービス業も全国に普及したのである。これは都市だけではなく、全国的に広がったのだ。
 このように全国的な普及の背景には、地域間の所得格差が縮まってきている事実がある。農業の所得はオイルショック後でも伸び悩みをしておらず、工業などは停滞していることがあり、農業中心の地方と工業地帯の所得格差が縮まったのである。さらに工業自体が地方に分散していきつつある。これも東京周辺ばかりの工業化ではなく、そこよりも遥かに遠い場所での工業化が発展していた。自動車やカラーテレビの大規模な工場が入り、その地域全体に大きな影響を及ぼし、下請け会社などが配置され、労働力を吸収した。他にもエレクトロニクスの半導体産業などが南九州を中心に大量に伸びつつある。このようにいくつかの理由が重なり、地方と都市との間の所得格差が急激に縮まってきた。マスコミなどの影響もあり、全国的に生活様式消費の在り方には、地方と都市の差が見られなくなり、都市型の消費が全国的に普及していく。結果、商業やサービス業が全国的に広がって行くのであった。また、高度成長期に「三種の神器」とよばれる耐久消費財が一通り普及した後に、サービス業を中心に消費者の選好が変化した。つまり、カラーテレビや冷蔵庫などが普及し、その普及率はほぼ100%に達してしまったのに対して、最近のあらゆる消費財は、もはや100%の普及率が望めないのである。当時で言えば、ビデオレコーダーやワープロを必ずしも購入する必要はなく、また海外旅行やスポーツなど、趣味も個性化が進んでいった。それに伴う細かいサービス業が増えてゆきつつあった。
 この第3次産業を裏から支えているものが、新しい低賃金労働者であり、それがアルバイトやパートタイマーである。最近では、その増加も頭打ちではあるが、これが第3次産業の普及を裏から支える重要な要因となった。しかし、このままであると中高年人口が増えていくことは判っており、そのような場合にはこれらの人々の雇用や年金制度をどうするかが、問題になりつつある。しかし、第3次産業の発展だけで経済成長をどこまでも支えていけるのかは疑問である。第3次産業は、ものの生産から独立してある程度拡大することは可能であるが、自己膨張を続けていくのは難しい。ものの生産の発展があって、それに見合う第3次産業がバランスをとって膨らんでいくことによって、経済成長が成し遂げられる。しかし、ものの生産の成長が停滞してしまって第3次産業だけが伸びていくとしても、おのずから制限があるという考え方がある。これは笠信太郎が「花見酒の経済」という高度成長批判のなかで発展したことだが、近年の経済を見ていると、笠信太郎の警告があたっているように思える。
 こうした中で、いくつかの新しい産業が生まれつつある。例えば、ファインセラミックスのような新しい素材産業が発展し、バイオテクノロジーの可能性も広がってきている。これから先、これらの産業がどれほど発展するかは不明ではあるが、真剣に新しい分野の開発や利用を進めない限り、企業は伸びていくことは出来ないであろう。これは、中期的、長期的に物価が安定して、競争が激しいという状況下にふさわしい現象である。
 19世紀の終わりには、まさに電気産業であったり、化学産業であったり、あるいは自動車産業が準備され、20世紀に入って爆発的に発展したという歴史がある。それに見合うような発展力が、これらの新産業の中に秘められているのかどうかが、これから先の経済発展の鍵の1つとなるだろう。
2010-12-26

戦後日本の製造業の成長と国際経済体制 その4

第3節 石油危機と産業構造の変動
 
3.1 高付加価値製品登場にともなう高度経済成長からの脱皮

 高度経済成長期とオイルショック後の対比をしたとき、現状の特色の一部に触れた。多くの産業でエネルギー価格の上昇に伴う合理化努力が行われ、産業構造を変えていった。エネルギーの価格上昇に伴って合理化がどの程度進んだかを見てみよう。製造業において、1973年と1982年を比べた場合に、1単位に必要なエネルギーが平均37%も節約されている。化学工業では約半分である。これは、石油化学の比重が下がったことが考えられる。鉄鋼業でも4分の3に節約されていた。
 このようなエネルギー節約を可能にしたのは、やはり企業内部の努力が大きいと言える。オイルショック直後は、無駄な電灯を消す、スチーム管に断熱材を巻きつけるなど、職場内部の点検によって省エネ努力がなされた。日本的経営の一環として、労働者一人ひとりが自分たちの生産過程にどれだけの無駄があるかを考え、改善案を提案する活動を通して、エネルギーの節約が進められた。この他に挙げられるエネルギー節約の技術としては、鉄鋼の連続鋳甲造技術や紙パルプ産業のボイラーの能率の上昇、セメント産業のキルンのカイゼン、自動車を軽量化してエネルギーを節約するなど、さまざまな技術が開発され、実行された。
 第1次オイルショックにより、原油価格はほぼ4倍に跳ね上がった結果、日本の企業は省エネに成功した。だが、これまでの高度成長を支えた産業である素材産業は大いに苦しめられた。加えて、1979年に勃発したイラン=イラク戦争により石油価格が3倍となる第2次オイルショックが発生した。この10年間で日本の産業構造は大きく変化した。高加工度産業の発展である。高度成長期の中心産業であった素材産業は、安い大量の全材料を大量に輸入して、これを加工して輸出するものであった。現在では原材料を節約して、付加価値の高く原材料費の比率が低く、高加工度製品を輸出する産業が中心になっている。これは、高度経済成長からの脱皮と言えるだろう。
 この脱皮の原動力となったのが、マイクロエレクトロニクス(以降ME)関係の産業がこの時期に伸びたことであった。ME革命の簡単な例としては、小型コンピュータを工作機械や産業機械に取り付けることが挙げられる。熟練の労働者が設計図通りに作るはずの製品を、機械にコンピュータを取りつけるだけで設計図通りのものを作りあげてしまうのである。この種の技術をオイルショック後に発展させることに成功したのである。当時、大型コンピュータではアメリカに負けていたものの、小型コンピュータを各種の機械に結び付けて、新しい製品を開発したことが、この時期の機械工業が大きく発展した理由である。日本の工作機械工業は工作機械そのものの品質の改良とエレクトロニクスとの結合の成功により、大きな輸出産業となった。これは、半導体産業、エレクトロニクス産業の素材としてのLSI、集積回路などを生産する産業の基礎にもなった。
 自動車産業も、窒素酸化物規制が問題になっていたが、規制をほぼクリアした車を作り出すことに成功した。同時に、日本車はガソリンの消費が少なく、アフターサービスの充実が評判を生み、オイルショック後からアメリカに対する自動車の輸出が急激に伸びる要因ともなった。こうして輸出に頼るようになった日本経済であるが、第1次オイルショック後から現在まで続くアメリカと日本の間の経済摩擦が表面化した。オイルショック後、消費も財政も日本の国内需要はすべて伸び悩み、輸出が経済成長の柱になっていた。1973年から1977年までの実質国民総支出は1975年価格で20.5兆円増えたが、その間に消費が10兆円であり、輸出が6.8兆円増えている。民間投資などは増えていない。企業の合理化や産業構造の変化や、ME化などの努力の結果、欧米収支が揃って赤字の時に、ひとり黒字であり、アメリカ向けの輸出が伸びた。
1977年になると、アメリカ政府は、日本は輸出によって経済を回復させることに熱心で、国内における景気対策、国内需要の拡大をとらないために、輸入が増えず、国際収支の黒字幅が大きくなり、円は安すぎると、激しい非難を浴びせてきた。この非難が当時のアメリカ財務長官から公表されると、すぐに円の為替レートが急に高くなり始めた。1977年の初めは1ドル290円台であったが、それから上がり続け、1978年の10月に最高の170円台に突入した。この事態に輸出産業は苦しくなってきたのである。1ドルの商品を輸出しても、今までは230円を受け取ることができたのだが、この時は170円にしからないのである。だが、貿易の黒字が減ることにはならなかったのである。これは、円が安い時に契約した輸出が高くなってから実現すると、ドル建の輸出額が増えてしまうからである。1ドル240円の時の契約が、1ドル200円になってから輸出されても、ドルから見れば1.2ドルになっている計算だ。また、世界中がインフレで各国の物価が上昇するので、日本の輸出品が値上がりしても、それほど割高にならないという理由が隠されている。
 結果、海外(特にアメリカ)の対日批判は収まらず、アメリカ、日本、西ドイツが経済三頭立ての牽引車になって景気回復をはかるべきだという主張も強くなってきた。1978年、当時の首相が成長率7%を公約に掲げて、財政支出が膨らませ、国内景気を刺激する政策をとろうとした。結果、公債発行を多くし財政赤字を膨らませたのだが、第2次オイルショックにより頓挫してしまった。

3.2 第2次オイルショックによる産業構造の変化と行財政改革

第2次オイルショックはイラン革命に伴うイラン=イラク戦争を背景とした原油価格の3倍の値上がりである。そのために、インフレの危険が生じ、金融引き締め政策が採られ、景気刺激政策が効果を十分に発揮しないうちにまた景気後退がきた。しかし、この場合、日本の経済政策は成功した。第1次オイルショック時は、列島改造論、過剰流動性などのインフレの火種をはらんでいた。だが、第2次の時は上記の通り、公約を唱えるだけで十分に景気は回復しておらず、日本銀行は1979年4月から翌3月までに公定歩合を5回にわたって引き上げ、金融を引き締めた。さらに財政支出も1979年からは抑制方針に変わっていた。第1次オイルショックの苦い経験が、早手まわしに引き締め政策をとり、結果として、投機活動などは表に出ずに終わったのである。この対策が成功し、石油の価格上昇と、それに伴うやむを得ない価格上昇、例えば火力発電をしている電力料金などだけで済んだ。便乗値上げは起こらなかったのである。
 オイルショック以来、急激に膨らんできた財政赤字は、なかなか解消の目処が立たない。社会保障の増加、国鉄の赤字など、かなり大きな既定経費の支出を背負っていた。それに対して税収の伸びは思わしくない。1975年には企業の利潤は落ち込み、第2次オイルショックの打撃を受けて、税収が減っているのである。そこで、「財政再建論」と「増税計画」が持ち上がった。増税計画とは、直接税中心の税制は限界にきたために、間接税の増徴をはかるべきだというものである。
 1977年秋、臨時行政調査会が行政改革案を答申した。「増税なき財政再建」である。政府の機構を簡素化し、定員を減らし、事業を切りつめ、補助金をカットすることにより、財政の収支バランスを整わせる、ケインズ経済の「大きな政府」とは逆の「小さな政府」論であった。この「増税なき財政再建」は前途多難であり、事実、官庁機構の縮小は上手くいかなかった。だが、電電公社(NTT)や専売公社(JT)は民営化され、国鉄(JR)も分割民営化の方針が打ち出されたのである。 
2010-04-16

戦後日本の製造業の成長と国際経済体制 その3

第2節 戦後最大の不況

2.1 企業努力による貿易黒字

1973年から1975年にかけて、日本の工業生産は大きく落ち込んだ。工業の清算指数は2年間で18%も低下したのである。鉱工業生産指数を見ると、約1年5ヶ月の間に19%の減少を見せている。在庫の山ができ、金繰りがつかず、「戦後最大の不況」が訪れた。例えば、粗鋼の生産が1973年には1億1900万トンだったのが、1975年には1億トンまで落ち込み、酷いのは工作機械で2年間に21.2万台から8.8万台に落ちた。それだけではない。船舶は、1975年には前から受注している分があるために急激に減りはしなかったものの、それから3~4年間の間に下落を続け、造船量は3分の1程度にまで落ち込んだ。しかし、この時に訪れた戦後最大の不況ではあるが、昭和恐慌の比ではなかった。
昭和恐慌とは、1929年秋にアメリカから発生した世界恐慌の影響を日本限定で呼んだものである。第一次世界大戦中は大戦景気に湧いた日本であったが、戦後欧州の製品がアジア市場に戻ってくると、戦後恐慌が発生。関東大震災後、それはいっそうに悪化した。以後も大蔵省相の失言による取り付け騒ぎから発生した昭和金融恐慌に代表されるように、日本経済は慢性的な不況が続き、為替相場は動揺しながら下落する状況が続いた。
昭和恐慌は物価が下がり、生産量は落ちなかった。対照的にこの不況は、物価は安定に向かっただけで下がることはなく、生産だけが急落した。インフレ下の不況であるので、停滞(スタグネーション)とインフレーションを統合して『スタグフレーション』と呼ばれることになった。海外でもインフレは収まらないが、生産は伸び悩み、スタグフレーションが続いた。当時、景気がよかったのは、OPEC諸国だけである。日本国内では引き締め政策の結果として、物価の上昇は納まったものの、社会の需要が急に減り、それを反映して生産も急減した。そのため、企業の経営は一転して企業経営が急激に悪化した。
この生産量の激減により、まずは生産設備が過剰となった。当然、労働力も余る。強気の経営が災いして、金利の負担や減価償却はかさむ一方である。企業の利益率も叩きつけるように下落してしまい、企業の利益が全国平均でみてみると、総資本に対して1%という酷い状況になった。以前は5-6%だったことを考えると、この落ち込み方は異常であり、企業の半分近くが赤字であったことが推測される。
このような状況下で企業がとった行動は長期計画としての「雇用調整」である。定年退職者の後任を採用せず、労働者の数を減らしていく。次に人員過剰な工場の労働者を他の工場へ移す配置転移がある。基本的に労働者は工場に雇われる形となるので、やめるまでは同じ工場で働くことになるのだが、それを踏み越えての転勤や場合によっては、引っ越しを伴う程の移動もあった。他にも出向という形で、関係のある会社で一定期間働くケースもあった。パートタイマーやその他期限付き労働者には、期限が来た時点で解雇した。それでも労働者が溢れるようであれば、退職金を割増する形で希望退職者を募集した。あらゆる方法での人員整理が数年間続き、製造業の労働者の数は大幅に減った。
これにともない、春闘相場が急激に下がっていった。1974年春には33%という記録を打ち立て、1976年までは10%超であり、同年は10%程度であった。それから急激に下がり、1979~1981年頃は、5~7%程度であり、ほとんどの物価上昇をカバーする程度になってしまった。これは、企業別労働組合が、勤め先の危機に当面した場合、まずその企業の存立を守ることが大事だと考え行動する、その性格がハッキリと出てきたものである。
オイルショックの結果、企業利益が急減した。そこで企業はあらゆる方法で懸命な合理化努力を開始した。いわゆる減量経営である。労働組合もこれに協力することとなる。国内の需要は見込めない現状、輸出に賭けるのだが、これが後に激しい貿易摩擦を生みだすこととなる。
さらに財政にも問題が発生した。当時の日本の財政の中で重要な地位を占めているのは直接税であった。個人にかけられる所得税と法人にかけられる法人税で、ほぼ60%を占めていた。この不景気のために法人税の税収が50%以下まで減ってしまった。加えて、1974年からは年金が大幅に改善されたのをはじめ、社会保障の財政の負担が大幅に増えた。これまでのように財政支出を伸ばしていけば財政赤字が増えていってしまう。そのために、それまでの不況期のように財政支出を増やして経済を刺激することを1975年、1976年の日本政府は躊躇した。財政支出は増やせず、国内の消費者は、消費を控えて貯蓄をするというムードであった。企業としても、設備が余っていたので、公害対策投資を除けば、設備投資が伸びるはずがなかった。
したがって、経済が回復する可能性は輸出だけになったために、企業は懸命な努力を重ね、輸出は急速に伸びていった。1974年には日本の貿易が大幅な赤字となっていたが、2年後の1976年には、輸入も増えたが、それ以上に輸出が伸び、貿易は黒字になった。以後、黒字幅がいっそう広がっていった。これは日本の企業の努力の結果であるが、海外との経済摩擦をいっそう激しくすることになった。

2.2 ケインズ的政策への批判

 これまでの高度経済成長の背後にあった政策思想は、アメリカでも、イギリスでも、日本でも、戦後の経済政策の中心となるのは、完全雇用と生活水準の向上にあった。そして、アメリカでも1960年代のケネディ時代、それに続くジョンソン時代を考えれば、民主党系のケインズ経済学者たちが政策のカジを握り、財政支出を膨らませて福祉社会をつくろうとする考えが支配的になっていった。財政を通ずる政府の経済的機能が国全体の中で拡充されていった。
 日本でも、政府は公共投資を膨張させて経済成長を助け、高度経済成長の後半になれば、国民生活のほうにも回ってくるようになった。例えば、公営住宅の建設や住宅金融公庫の貸付金を増やすなど、社会保障給付の改善も1970年から1974年にかけて行われた。しかし、アメリカでベトナム戦争が勃発した。これによりインフレが激しくなり、経済成長が落ち込んだ。このような状況下でケインズ経済学に始まるような経済政策に対する不信感が非常に強くなってきた。批判されたのは広い意味でのケインズ経済思想であり、ケインズの発想ばかりではなく、後の人々が拡充してきたものが含まれている。しかし、ケインズの思想の成長政策に対する批判が非常に強くなり、日本もその例に洩れなかった。こうして、次の時代が準備されていったのである。
2010-04-15

戦後日本の製造業の成長と国際経済体制 その2

第1節 高度経済成長の終焉

1.1 ニクソンショック

 1971年8月、当時のアメリカ大統領であったリチャード・ニクソンは新経済政策を発表した。その内容は、アメリカのインフレを鎮静させようとする引き締め政策であった。賃金、物価を90日間原則的に凍結することと、財政を引き締めることである。当時のアメリカはベトナム戦争や「偉大な社会」政策による財政赤字から完全雇用状態になり、インフレーションの加速や貿易赤字拡大などもあって、景気は過熱気味であった。この時の通貨体制はブレトン・ウッズ体制と呼ばれ、ドルと金の交換比率を固定し、各国の通貨とドルの交換比率も固定することで通貨の裏付けをするものであり、金ドル本位制とも呼ばれていた。当時の円ドルは1ドル360円であった。
 このような引き締め政策の一方で、国際収支の改善のために、輸入品に対して一定の割合で輸入課徴金をかける方針を打ち出した。これは事実上、日本や西ドイツのような競争力の強い国に対して、為替相場の引き上げを要請する意味を持っていたのである。実際、政策が発表されると、ヨーロッパの各国は、ほとんど全部が為替レートをフロート化した。つまり成り行きに任せて変動させることにしたが、日本は8月末まで360円のままであった。だが、円レートの切り上げは必至だとみられた銀行や商社は手持ちのドル為替を日本銀行に持ち込んで、360円で円に換えた。ドル売りをしたのである。結局、日本はフロート制度に移行する結果となり、日本銀行は大きな赤字を出すに至った。それからは、毎日円が上がって行き、12月にアメリカのワシントンで開かれたスミソニアン研究所で会議が開かれ、308円の新しい固定レートが決まった。ブレトン・ウッズ体制よりスミソニアン体制へ移行することになった。
 ニクソンショックの日本における影響は、少なくとも一時的には深刻であった。円が上昇するにつれて、地方の輸出品産地などでは、値段が上がっていく輸出品を購入する相手がいなくなると思いこみ、深刻なパニックが起こった。事実、一時的ではあるが、商談が絶えたこともある。しかし、それも為替が激しく変動する間だけのことであり、結果的に心理的なパニックだった。だが、経済界は動揺した。国内の景気は、前年までの引き締め政策により、落ち込んできていたのだが、やや上向きになった瞬間のニクソンショックに、当時の政府は財政支出と財政投融資を大幅に増やした。これは海外で失いそうなものを、国内で取り戻そうというものだ。金利は下がり、通貨供給量は増加し、公共投資の伸び方が著しい。
 だが、ここで発生したのは過剰流動性の問題である。現金通貨と、当座性・定期性預金の合計(市場における需要の源泉になる通貨供給量の指標(いわゆるマネー・サプライ)が1971年から1972年には異常な伸び方をした。1970年は17%であったのが、1971年には24%、1972年には25%と異常に増加しているのがわかる。銀行券の増発も激しく、日銀の貸し出しも1971年から1972年には8兆円も増えており、全国の銀行の貸し出しも1970年に比べ、1972年には23兆円の増加の62兆円に増えている。

1.2 世界的インフレの昂進と第1次オイルショック

 政府は大幅に財政支出を増やし、民間に対しても資金を大量に供給することにより弱っている経済に刺激を与えようとしたのだが、それが過剰となり大インフレの種をまく結果となった。
 1972年7月、日本の首相も佐藤栄作から田中角栄へと変わった。田中角栄は首相になる以前より『日本列島改造論』を発表していた。これは太平洋沿岸にある工業地帯を全国各地へ分散して、地域ごとに人口20万から30万の工業中心都市をつくり、その間を高速道路や新幹線で結ぼうというアイディアであった。こうすることにより、太平洋ベルトから外れた日の当たらない地域に経済成長の光を与える計画である。しかし、これだけの計画を成功させるには、少なくとも、後10年間のGDPは9%以上の高度経済成長を続けなければならなかった。
 田中内閣発足時、世界は世界的インフレが激化しつつあった。それはアメリカが泥沼のようなベトナム戦争を続けていることにより、海外へドルを流出させ、各国はかなり外貨が豊かになっており、経済成長政策をとった。世界の需要は増大していき、世界的に物価が上昇気味であり、特に一次産業価格が上昇に向かったのである。
 1960年代、中東の石油は過剰傾向が続き、その価格はOPEC(石油輸出機構)の思うようにならず、下落気味に推移していた。ところが、1969年から1970年にかけて各国の石油需要が増えてきて、需給関係が引き締まり気味になってきた。この機会にOPECは、大胆にも石油価格を引き上げるために動きだした。1971年には、原油価格を5年間かけて、段階的にバーレル(159ℓ)あたり1ドル上げることを決定した。また、1972年には、産油国が石油の利益を入手するために、大手石油会社の株式を順次手に入れるリヤド協定を結んだ。
また、この年はソ連を筆頭とした東欧諸国の穀物が不作で、アメリカから大量に購入することになった。これが世界全体の穀物価格を引き上げ、物価に影響を与えることとなった。このような世界的インフレの状況下で、日本国内では過剰流動性と言われるほど資金がダブつき、列島改造論にともなうブームが起こった。
これにより、全国で土地の買い占めが行われた。地価の暴騰をもたらし、1972年の終わりには他の商品に対する思惑買いの動きも発生し、物価が上昇した。1973年の初めには、日本銀行は金融の引き締めに転換に至ったが、その効果は現れず、物価の上昇は止まらなかった。一方、アメリカでは新経済政策を発表したニクソン大統領だったが、結局は不景気を恐れて引き締め政策を緩和した。これにより、アメリカのインフレは元に戻り、国際収支の赤字も拡大することになった。1973年2月、スミソニアン協定による1ドル308円のレートの維持は困難とされ、フロート制に移行し、今日に至る運びとなり、世界的インフレは激しさを増していった。
金融の引き締めも始まり、フロート制下で円レートも上昇しているが、もはや引き締め政策や円レートの上昇程度では、インフレを抑えられる状況ではなくなっていた。この年にはオイルショックが起こるのだが、仮にオイルショックが発生せずとも朝鮮戦争以後最悪のインフレが進行しつつあったのは間違いないだろう。1973年10月、第4次中東戦争が勃発した。イスラエルの侵攻作戦に対して、OPECは、アラブ諸国に敵対的である国には石油を輸出しない石油作戦を発動させた。当時、日本で使っているエネルギーの4分の3は石油であり、その大部分を中東から買い取っていた。加えて、イスラエルに同情的なアメリカ寄りの外交方針を取っていたために、石油はもちろん、石油製品、果ては関係のない商品まで激しい値上がりを見せた。売り惜しみや買い溜めも激しくなりトイレットペーパーがなくなってしまうという噂まで現れ、日本は深刻なパニックを引き起こすことになる。この年の10月前後のトイレットペーパーの需要量は異常ともいえるが、翌年の需要は僅かであった。結局、例年の消費量に大差は現れないことを示唆しているのである。
OPECは石油輸出制限を打ちだしたが、その実、輸出量は減らなかった。だが、その後で原油価格を4倍にまで跳ね上がらせた。OPEC諸国は、こうして自国の資源を有利な輸出品にすることに成功した。だが、この衝撃は世界中を駆け巡ることになった。日本の石油需要と当時の石油輸入の増加は著しいものがあった。1965年には8700万キロリットルであったものが、1969年には1億7500万キロリットル、1973年には2億8800万キロリットルと凄まじい増加を見せている。だが、これだけの石油を買いこんでいる国は日本だけであった。それだけに、石油の輸入が途絶するというだけでパニックが起こるのも無理はなかったのである。
 当時の石油の輸入状況を調べてみると、大型タンカーが大量に作られるだけではなく、急速に大型化が見られる。この時期に30万トンタンカーが量産される運びになった。三菱造船所がタンカー専用工場を作り、毎月1隻のタンカーを進水させるほどである。この事からも石油が輸入できないことへのショックがどれほど大きく、物価をそれにつれて上がったことも理解できる。石油不足という噂が広まり、石油だけに限らず、全ての価格が上昇した。物価上昇率が著しく高かったのが、1974年である。この年の2月、卸売物価が前年同月と比較すると3%の上昇、消費者物価も24%の上昇という、途方もない値上がりを見せた。この年の春のベースアップ率(基本給与に対する昇給額)も33%に達した。これは終戦直後のインフレ以来みられなかった大インフレーションであり、俗に『狂乱物価』と呼ばれることになった。この狂乱物価を納めるために急激に引き締め政策を強化した。この時の引き締め政策は、戦後においてドッジ・ライン以来の厳しい政策となった。
 この狂乱物価を止めようとする引き締め政策の他に、2つの法律が1973年につくられた。『石油製品需要安定法』は、戦争中のような石油の配給や使用が統制できるようになった。もう1つは『国民生活安定法』であり、石油製品以外の国民生活必需品についても、場合によっては統制することができるように準備された。つまり、戦時統制が再現されそうになったのだ。一時はそれほどの切迫感が政府の中でもみられた。だが、この法律が大規模に発動することがなかったのは、引き締め政策が効果を挙げたからである。

1.3 不況への転化

 33%の賃上げが達成された春まではインフレが濃厚であったのだが、夏には不況の雰囲気が非常に強くなっていた。繊維産業などの場合、それまでブームで製品をつくれば即座に売れる状況だったが、それが一転し商品が余るようになり、在庫の山が出来てきた。そのために価格も下がり、今度は深刻な不況感が強くなった。
 この急激な不況への転化を示す例としては、雇用保険制度の改正問題である。以前は失業保険と呼ばれていたものを雇用保険に改組するのである。これまでは労働力不足であったので、当然失業者は少なく、失業保険財政は黒字であった。失業して保険金を受け取る若者が多く、再就職する意思もないのに、満期まで需給する者も多く、当時は早めに再就職する人には保険金を1ヶ月またが2ヶ月分を追加して払う再就職支度金という制度があった。これを悪用する者が現れたのだ。若年層の失業者にはこのような問題があり、高齢の失業者は再就職先が乏しいために、若年層の保険金の給付期間を短くし、高齢層の失業者は長くする。就職支度金制度も廃止することが好況下の制度改正の主眼であったが、野党の反発を受けて1974年の春の国会では審議未了に終わった。
 だが、雇用保険制度の改正案には、次のような条項が含まれていた。不景気になった時、とくに不況が激しい特定の産業を指定して、その産業で企業が休業する場合の給料の半額を、中小企業の場合は約3分の2を、雇用給付金として改正された雇用保険の基金から支給する。改正案を作った人物は、不況対策が即座に必要となる状況を想定しておらず、審議未了となって間もなく、この条項が労使双方にとってにわかに魅力的になってきた。そこでの法案が、その年の年末に臨時国会にてわずか1週間で通ってしまった。実際、繊維産業をはじめ、不況産業に指定されて一息をついた産業も多かった。
 もう一つ、当時の消費者の不安感を挙げてみよう。インフレが昂進するとする場合、現金や預金を持っていれば、それだけ価値が減るので、現金を物へと交換しておいた方がいいと考えた。だが、実際には1974年は消費が減り、貯金率が高くなっている。これは、貯金がインフレで目減りしてしまったことへの不安と、将来何が起こるかわからないために、貯蓄をしようという意識が高まったからだと推測できる。こうして、消費も急に伸び悩みとなった。
 まる2年続いた引き締め政策だったが、1975年の春に緩和される運びとなった。厳しい引き締め政策は、インフレの抑制には成功したものの、同時に高度経済成長を終わらせる結果となった。
2010-04-14

戦後日本の製造業の成長と国際経済体制 その1

 2008年9月15日、米投資銀行リーマン・ブラザーズが連邦破産法11条を申請し、破綻した。当初、連邦準備制度理事会(FRB: Federal Reserve Board)のバーナンキ議長とポールソン米財務長官がメリルリンチとともにリーマン・ブラザーズを救済するという観測が欧米の金融機関にあった。このため、予想を裏切られた形になった国際金融市場に衝撃が生じた。国際的に株価が暴落しただけではなく、国際的な銀行間決済に用いられるドルの調達金利が年末にかけて急速に上昇した。FRBや欧州中央銀行(ECB: European Central Bank)、日本銀行など先進国の中央銀行は協調して政策金利を引き下げるとともに、ドル資金を金融機関に供給して国際的な金融システムの崩壊を防ぐために懸命の努力を行った。幸い、国際的な金融システムは動揺したが現時点では崩壊には至っていない。
 今回の金融システムの不安定化の特徴は、財貨やサービスを取引する実体経済を急速に悪化させたことである。日本の場合、2009年の1-3月期を景気の山として、4-6月期には実質成長率が-2.7%に落ち込んでいた。既に、2008年度の第1四半期には輸出も減少しているが、日本の国内総生産の約55%前後を占める民間最終消費の減少が9月までの景気後退の主たる要因であった。これが、2009年10-12月期には輸出が約14%減少し、実質成長率も-2.7%(年率換算-10.2%)になった。さらに、2009年1-3月期には輸出が21.3%も減少し、実質成長率は-3.1%(年率換算-11.9%)とさらに減少幅が拡大した。日本では小泉政権下で不良債権問題の解決が進み、金融機関は欧米と比較して健全であるとされていたが、国際経済の急速な減速によって、戦後最悪の景気後退を経験した。
 1970年代のはじめから1990年代半ば頃までは、日本の製造業の輸出がアメリカ向けを中心に拡大すると、アメリカから内需拡大を求める「外圧」をかけられてきた。実際には1980年代後半のバブル期には輸出だけではなく、資産価格の上昇によって個人消費も拡大していた。しかし、国内の製造業企業の海外売上高比率が高いのも事実である。2007年現在、日本の製造業が国内総生産に占める比率は24.1%である。アメリカの製造業の比率が11.7%、イギリスの比率が14.3%にすぎないことを考えると、日本経済における製造業の国内総生産に占める割合は先進諸国の中でも顕著に高い。
 日本経済の特徴として、「輸出主導」や「外需依存」などの表現が用いられることが多い。現実には、今日の日本経済のあり方が実現したのは、戦後復興をへて15年を超える高度成長期を経験した後、二度の石油危機に直面して製品開発や品質の改善、「省エネ」など企業の努力があった。この論文では、中村隆英[2007]を手がかりに、現在の日本の製造業が国際的に巨大な存在となった過程を、オイルショックという国際経済体制への適応を中心にして歴史的事実を基に描写する。
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